『右翼と左翼』-浅羽通明

書影(右翼と左翼) 読んだ本

 読みました。

 恥ずかしながら、この年になっても「右」や「左」といった言葉がよくわかっていなかったが、本書でようやく概観がつかめたように思う。

「右」と「左」とは

 僕としては、「右」(右翼)や「左」(左翼)というのは、普遍的な意味をもつ概念ではなく、そのときどきの状況に反応した態度を指すものだと理解した。「現状」へのカウンターとしての「左」、その「左」へのカウンターとしての「右」というように。この「現状」は当然、時代や国、文化によって異なるために、「左」や「右」の意味も流動的にならざるを得ない。本書では二軸、三軸のモデルによる分類が引用されていたが、「現状」に対する論点の切り方、角度により、あらゆる軸がとれるように思う。それでも、それらの軸において、「現状」を変革しようとするのが「左」、それに対抗するのが「右」という概念モデルは成り立つのではないだろうか。
 さて、折角なので、僕の態度を前述の三軸モデルに当てはめてみたいと思う。
・政治的統制:弱
 右へならえの集団主義は苦手だ。個人の思想や、言論・表現の自由は大事だと思う。
・経済的統制:強
 経済格差により、学習機会や職業選択などの自由が結果的に奪われてしまうため、是正されるべきだ。
・文化的・社会的統制:弱
 伝統には負の側面があるため、手放しによいとは言えない。特に日本は伝統的に村社会であり、集団主義の傾向が強いため、個人的に好きではない。
 これらの立場を総合すると、社会民主主義・リベラル的な態度、つまり「左」という結果が出た。現状の社会をよしとしているわけでもないため、概念モデル的にも「左」と言って差し支えないだろう。

思想におけるヴィジョンの不在

 そうした現状を批判し、宗教的価値観の再興を掲げる著者の結論には全面同意し難いものがあるが、現代では「右」にせよ「左」にせよ、思想的なヴィジョン、つまり到達すべき最終理想形がはっきりしないというのはもっともだと思う。とはいえ、個人の人生ですらヴィジョンを描けていない、僕のような人間はきっと多いであろうから、いわんや国や世界のヴィジョンをや、といったところか。

 また、インターネット、殊にSNSの発展により個人の発言力が増した現代では、「べき論」よりも「である論」を語る方がクレバーだという雰囲気もあるように思う。一個人の近視眼的な態度では、「である論」で語られる現状に対応することを考える方が、より簡単で「コスパ(タイパ?)がいい」からではないだろうか。
 しかし、現状追認の「である論」に進歩はない。小手先のライフハックから足を洗い、理想追求の「べき論」を抱き、その実現のために邁進するのが、成熟した社会的人間というものだと思う。その理想が叶えられることはないとしても。

教育における思想の不在

 より素朴な感想としては、こういった思想が自分の中で整理できていないと、例えば新聞の社説や国際関係のニュースなんかを読んでも、あまり面白くないよなー、と思う。
 一方で、個人的な経験に照らしても、家庭ではもちろん、義務教育や高校でも、「右」や「左」といった思想を学ぶ機会があまりなかったように思う。本書でも述べられていた学生運動の影響なのかもしれないし、「稼げる」即物的能力養成という教育へのニーズの影響かもしれない。にもかかわらず、受験期なんかは新聞の社説を読めと口を酸っぱくして言われた記憶がある。
 そんなちぐはぐなことをやっておいて、政治参画意識の醸成だの、考える力の涵養だのとは片腹痛い。興味のある奴だけ、1を聞いて10を知るような奴だけ育てばいいというのでは、教育の意味がないではないか。
 いやまあ、僕が不真面目すぎただけで、それはもう丹念に国学だの共産主義だのの授業をしてくれていて、その影響で年々活動家が増えている、という可能性も否定できないけど。

本書の問題点

 最後に、本書における最大の問題点を挙げたい。中江兆民、大杉栄、ヘーゲル、マルクス、フーコー……そう、新たに本を買いたくなってしまうことだ。やはり理想よりも現実、高邁な思想よりも本棚のスペースと可処分時間の方が、僕にとっては切実な問題なのかもしれない。

参考:基本データ

浅羽通明 / 右翼と左翼/ 幻冬舎(幻冬舎新書) / 2016年 / 253ページ
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344980006/

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